“日本脱出”って、それ、日本に対する息苦しさじゃないだろ。
まさか、自分が30歳になってから、“旅的なこと”をするとは、思ってもいなかった。
いつごろか、日本において、“日本脱出”という言葉を耳にするようになった。
「この先、日本の未来は明るいか?」なんてのはわからない、が、「きっと、暗い」という意見が多いのか。
日本の未来などと、そのようなこと、ボクにとってはあまりに壮大であるし、ちょっとピンとこない。
そんなことを理由に、今回、東南アジアに来たわけではない。そんな難しいことが私にわかるはずもない。
しかし、どこか、日本に「息苦しさ」を感じることはあった。
そういう人、多いんじゃないか? 日本に「息苦しさ」を感じる、という人。どうだろうか。
けど、ちょっと考えてほしい。本当にそうなのか?それは、日本がそうだから、なのか?
それは、日本に対する「息苦しさ」ではなくて、『何者にもなれない自分自身に対する息苦しさ』なんじゃないか?
“日本脱出”って、一体何からの脱出なのか
いったい、自分は何者なんだろう?
自分で自分ことがよくわかっていない。自分が何なのか、わからない。自分をどうしたらいいのか、わからない。
「仕事をしていない、貯金がない、取り柄もない、結婚もしてない」、いったい、私は何者なんだろう?
「仕事をしていても、貯金があっても、取り柄があっても、結婚していても」、いったい、私は何者なんだろう?
そんなときがないか?
『自分がわからないこと』。
今、感じている息苦しさは、日本がどうとかじゃなく、『自分が行方不明なっていること』であり、決して、国は、そんな自分の行き先を案内はしてくれはしない、ということ。――“日本に対する息苦しさ”、あるいは“日本脱出”って、そういうことじゃないか。
自分に対する息苦しさ、向き合うこと。
で、いうまでもない。「自分自身で何とかしろ」という、ただそれだけの話。
ボクの大好きな芥川龍之介に、こんな言葉がある。
“人生は地獄よりも地獄的である”
芥川はいうんですよ。「生きることなんて、ろくなもんじゃねぇからな」って。苦しいことばっかだからな、って。
ボクの頭のなかで作り上げた芥川はこういう。
「生きるとは、苦しさと向き合うということだ」
軽い人生なんて、ひとつだって、ひとりだってありゃしない。ひとつひとつ、どれもすべて、重くて、深い。
「何者にもなれない苦しさ」、私っていったい何なんだろう? 自分が行方不明になってしまって、焦ってる。「このままでいいのか」って水面下で悩んでる。
私と他人との大きな差異ってあるのかな? というか、そんなことを考えてしまう時点で、自己愛が強すぎるという話で、そこからまず治さなきゃいけないんじゃないの? さぁ、とりあえず『個性』だ、無理してでも個性を求めよう、だなんて、「手持ちのものだけで満足できない性格」は、ないものねだりで、息苦しさを増すばかりじゃあないか。
深みにはまると、こうなる。
日本に対する「息苦しさ」なんて、そこには少しもなかった。
すべて、自分に対する「息苦しさ」だったんじゃないか。
そんなもの、国がどうにかしてくれるわけがない。「自分次第」である。
そして、「自分次第」であることによって自分にかかる負荷、これもまた、息苦しさに違いなかった。
こんなものは、解決策など存在しない。時と運で解放されることはあるかもしれないが、誤魔化さない限り、ずっとつきまとう。
芥川はいう。「生きることなんて、ろくなもんじゃねぇからな」、苦しいことばっかだからな、って。
「生きるとは、苦しさと向き合うということだ」――と、もしも彼がそういうことを言っていて、そして、そのような誤魔化さずに向かい合う人生にこそ幸あれ、と考えていたのなら、やはりボクは彼と同意見だ。
それは“脱出する”、などということでは決してない。
以上、@ryotaism。
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