マレーシアのランカウイ島、というところのビーチが、実に広くて美しかった。

“海水浴”なんて、とてもとても、縁なんてありませんでしたこれまで。

しかし、ビーチで遊び興じる諸外国人を見ていて、炎天下のもとで海水に浸る、と思えば、浜で寝そべって陽に当たる、「これはなんだか大変気持ちが良さそうだ」と思った。

また、ランカウイ島ビーチ、先にも書きましたが、横にずっと広い。人でごちゃごちゃしていない、スペースがある。「遊園地が苦手なのは人が多いからだ」と云う私にとって、これはとっても助かる、「せっかく来たのだ、ひとつ泳いでやろう」と思わせてくれる。

そんなこんなで、いつぶりになるか海水浴、たぶん10年以上は経つだろう、私は寝間着にしていた短パンに履き替え、いそいそと海へ向かった。


6月といえど東南アジア、真夏の暑さ。刺さるような日光である。砂浜は焦げたように熱い。絵の具の青を伸ばしたような空、ゆっくりと風に流される綿飴のような雲、「眼前には、海がある」。

ざっとビーチを見渡し、「この辺りでいいだろう」と目星をつけたら、もぞもぞとTシャツを脱いだ。子供のころより貧相な体格で、ガリガリに痩せておるんですが、なるほどここは海外だ、誰も見ちゃいない、と、思い切って脱ぎ捨てる。

10年ぶりの海水浴になる。「俺ぁ一生、海水浴なんてせん。興味ないんやから」と、聞かれてもいないのに揚々としゃべったこともしばしば。お恥ずかしい。まったく何が起こるかわかったもんじゃなくて、一生の予想など、大概はハズレる。

はたして、こんなものなのか?――想像していたよりも海水は冷たくなかった。が、それがまた丁度いい。不躾ではない、自然と入っていける冷たさだ。更に腰のあたりまで浸かると、なるほど、これは快適である。暑さしのぎにはじゅうぶんである。過去、和歌山の白浜で一度泳いだことがあったが、あれよりかは海水の透明度は幾分高く、汚いという感じもない。

また、“こいつ”が面白い。こいつ、と云うのは、“波”のことである。時折(この、“時折の間隔”が全く読めないのが興味深いのだが)、犬かきする私の目線よりも高いところから、波がやってくる。いよいよというところで、あらがってみるのだが、「不可抗力、ああこれが不可抗力というやつだ」、波にさらわれ、浜辺のほうへと押し戻される。塩っぱい味が鼻腔に広がる。なんとも心地いい敗北感だ。

そんなことを幾度も繰り返す。2,3回やれば飽きそうなものであるが、何度も何度も、波が来るのを待ち、来ればそれと戯れる(じゃれる)、何度も何度も。まったく幼稚な遊びに思う、が、なぜこんなにも楽しい、「一体全体、自分は馬鹿になってしまったんだろうか?」。

手練のサーファーが、“同じ波というものは決して一度もない”、なぞ云う。「当たり前だろうそんなことは」と思っていたが、その当たり前のことを云わなければならないのは、「同じ波のないことがどれだけ非凡でどれだけ素晴らしいことであるか」という実のところを我々が知らない為だ。(「たかだか犬かきの海水浴で、何を知ったふうな口を聞く」、ご尤も、申し訳ない。調子にのりすぎたなぁと思う。)

存分に波と戯れ、泳ぎ疲れた私は、砂浜へと上がる。近くの岩に腰掛け、薄目で海を眺める。はしゃいでいるのは俺だけじゃない、ここにいる人、国は問わない、皆、幸福そうだ。ストレス社会って、そんなの信じられないや。って、望郷なのか、はたして忘郷なのか。なんてことを考えるのも馬鹿馬鹿しい、こんなにも優雅なのに。

腕組みを解いた時、ふと気付く。「あれ?先ほどまで全身ずぶ濡れであったはずだ。もうすっかり乾いているじゃないか」。身につけた短パンまでもが、僅かな湿り程度となるまで乾いてる。海水は真水よりも蒸発しにくいという化学実験だってある。だのにこんなにも短時間で、一体、誰の仕業か。

燦々と降り注ぐ陽。陽の熱。違いない。しかし、それだけでは説明がつかない。

『ビーチの醍醐味は3つあるんだよ。まずは海だろ、そして太陽。最後に、“風”だ』

そうか“風”のおかげか――遠く水平線から、足音をたてずに、風はやってくる。撫でるように、包みこむように、それはやさしい。

海、太陽、風、ここはなんというバランスだろうか!驚きと発見をくれたことに感謝する。食わず嫌いで避けてきた海水浴‥‥‥‥なんでもやってみるもんだな。なんでもやってみるものだ。

そのあとも、私は何度も海に入った。一人、はしゃいだ。「これは言葉の海ではない!本物の海だ!!」

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“上善若水”――水のようになりたいものですが、「まだまだ程遠いな」と、実際に触れてみて強く感じました。本当に、自然は偉大ですね。

現在、タイのバンコク。つまらない日記を書いて、日は暮れる。ではまた。@ryotaismでした。