「メメントモリ」という流行語について思うこと
3~4年ほど前から、かなぁ。
“メメントモリ”という言葉を、色々なところで見かけるようになった。
“メメント・モリ”とは――。
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。
直訳すれば「死を想え」。
簡単に言えば、「(自身にいつか必ず訪れる)死を忘れるな」といった意味。
この言葉を使ってる人をよく見かけるのですが、なんか違和感がある。それについて書いてみるわ。
“メメントモリ”という流行語
何がきっかけかわからないけど、ネット上でこの言葉はどんどん広まっていった。
たとえばTwitterとか、自身のプロフィールとかに、“メメント・モリ”という言葉を載せる。座右の銘と、公言している人もいらっしゃる。
“メメント・モリ”という言葉は、すっかり流行語と化した。流行語のように使われている。
流行った理由としては――、「死」を考えることで刺激を得られる、であったり、また、「先のことより『今』を大事に生きよう」という価値観をもつ者が多いからでしょう。
別にいいんじゃないでしょうか。なんら問題はない、ないのですが――。
なんか違和感がある。というのも、
「明日死ぬかもしれない」って、ものすごくコワイことだ。
できることなら、そんなことは考えずに生きていきたいのが、人の本心ではないか? なぜ、“メメントモリ”などと、平気な顔で平然として使えるのか?
ほんとうの意味で「死」をわかっていない
養老孟司『死の壁』に、こんな文があります。
首吊りをしようとしてロープが切れたら尻餅をついて「ああ、死ぬかと思った」と言った奴がいるというのは、現代人の死についての感覚がよく現れています。実感がないのです。(中略)
「死にたい」「死ぬぞ」という言葉で出てくる死は、自分の思い込みのなかだけの死です。実際の死とは異なる。その人自身、死がどういうものかわかっていない。
で、一言でいうと
“メメントモリ”という言葉を平然として使えるのは、「死」というものが、ほんとうの意味でわかっていないからではないか。だから、気軽にそんなことが言えるんじゃないか。
頭のなかで描いている「死」、それは所詮、机上で都合よく妄想した、リアリティのない「死」、絵空事の「死」である。それは客観的な「死」であって、当事者としての「死」ではない。言葉や記号の範囲を越えない間接的な「死」であって、直接的、身体性の伴った「死」ではない。
いつか必ず死ぬことは理解しているが、心のどこかでは、いつまでも「死」がやってこないと思っている。「ひょっとしたら死なないんじゃないか」と思っている。
その程度なんですね。僕も含めて。
ほんとうの意味でわかっていない。言葉で「死」と言っているだけで、その怖さと、当事者としての意識が足りていない。
そもそも、「明日死ぬかもしれない」「必ず死ぬ存在である」なんて、当たり前のことである。
それをわざわざ“メメントモリ”という言葉にし、自身に言い聞かせようとしているというのは、「普段、いかに『死』と離れた生活を送っているか」、ということ。
平然と“メメントモリ”と言い放てるのは、死について実感がない、あるいは、死を実在としてとらえていないからである。
“メメントモリ”と本気で思っているヤバさ
いや、みながみな、そうではない。
心から“メメントモリ”を信条とし、自身を「死ぬ存在」としてとらえ、当事者として「死」を強く意識している人間も、なかにはいるだろう。
しかし、考えてみてほしい。いや、深く考えるまでもないが。
そんなやつ、あきらかにヤバイ。――本気でもしそう思っているのだとしたら。
「ちょっと性格が変わっている」で済めばよいが、 「死」と「生」の境界がなくなってしまうと、なにをしでかすかわからない。
法律や常識などが通用しない、そんなものは「死」と比べればあまりにちっぽけだからである。
「死」を覚悟して生きる――かっこいいセリフであるが、『心からそう思うことができる人』というのは、その実、けっこうヤバイんじゃないか。
危なっかしいな、と僕は思う。
最後に――
で、結局、なにが言いたいかというと……
「死」というものが、現代人にとって、どこか遠いものとなってしまった。身近なものとして考えることができなくなった。
結果、“メメントモリ”なんて言葉が流行する。実感できていないからこそ平然と口にすることができる。また、そうやってわざわざ言葉にすることで、失った実感を得ようとしている。
“メメントモリ”という言葉があってもいいし、良い格言であるとは思うけれど、「流行」となるのは、少しちがうんじゃないか。「死」というものの実感が足りていないように思うし、とはいえ、真にそれを信条としていたら、それはそれで危なっかしい。
「あまり過剰に言うのは、不自然で違和感がある」と思う、思いました。@ryotaism