ブログ――前回の投稿から、1ヶ月以上が経った。

『365の話。』を始めて、爾来、目に見えて更新頻度が低くなったなぁ。さすがに毎日更新となると、いろいろと時間をもっていかれる。

といっても、たわいもない話をしているだけだから、さして負担ではないのだけれども。


寝る前、YouTubeにアップした自分の話を、自分でも聴いてみる。スマホで再生する。自分の声が聴こえる。自分がしゃべっている。

「俺って、つくづくつまらない人間だなぁ」「俺って、本当にしゃべりが下手だなぁ」……などなど、自虐心に駆られる。恥ずかしくて、思わず赤面してしまう。

が、どこか、心のどこかで私は喜んでいる。

自分で録音した自分の話、自分の声――そいつを自分で聴きながら、私は喜んでいるのだ。

これは決して、“自問自答”、あるいは“自己との対話”といった高尚なものではない。

私は、自分で自分のことを慰めているのだろう。

「こいつ、ほんとにどうしようもな奴だな」「凡人のクソつまんねぇ話」「三十歳を越えたいい大人が一体何をやっているんだ」

そんな人――自分自身を、私が笑ってやることによって、私を救いだそうと試みている。

もし自分の話を他人が笑ってくれないなら(誰も聴いてくれないなら)、じゃあ代わりに自分が笑ってやろう。自分で聴いてやろう。

救いようがない自分を救うのは自分しかいない。たとえば自分に友だちがいないなら、まずは自分が自分の友だちになってやればいい。味方がいないというなら、自分が自分の味方になってやればいい。

孤独だと思うなら、独り言をしゃべり続ければいい。そして、その独り言を自分が聴いてあげればよい。

一見、ムチャクチャな理論に思えるが、そういうやり方でしか乗り越えられない壁もあるだろう。コミュニティの外れで、独りでどうにかしなきゃいけないとき、人はそうするよりほかない。

『お前は全くダメな人間だけれど、そんなに言うほど悪くはないよ』――と、自分で自分を慰め、なんとかかんとか、「私もまんざらじゃない」と思えたとき、私は少しだけ自分のことを好きになれた気がして、喜ばしく思う。

◆ ◆ ◆

「365の話。」、チャンネル登録者数は現在120名、動画1本あたりの平均再生回数は約20回。コミュニティというには、あまりに小さく、狭い。

「自分のために」「自分のためだけに」始めた企画であった。そもそも私に人を惹きつけるような求心力なぞあるまい。

……ところで最近、漫画『3月のライオン』を読んだ。

「なぜ頑張ったり努力をしたりしなければならないんですか?」という生徒の質問に対し、教師は考えた末に、次のように答えた。

“「今よりマシな人間」になりたかった”

ただそれだけであった。

理由なんてのはそれくらいしかない。@ryotaism