自分よりも先に親のほうが早く死ぬ。親孝行について。
私よりも親のほうが先に死ぬ。その可能性は高い。
それは私に限らず、だいたい皆そうであろう。
『自分よりも先に、親のほうが早く死ぬのだ』
といったことを思うと、一寸、焦りを覚える。
親が死ぬ前に、なにかしら親孝行をしたほうがいいんじゃないか。
親孝行、したいときには、親はなし。
石に布団は、着せられず。
なんていう、親孝行をあおるコトバがあるけども、
「じゃあ具体的に何をしたらいいんですか?」というのは、だれも教えてくれない。
そもそも、親孝行とは一体なんだ。
その最もシンプルで一般的な解は、「親に喜んでもらうこと」、だ。
たとえば、母の日にプレゼントを贈る、温泉に連れて行ってやる、など。
いや、そんなことをしなくても、実家に帰省するだけでもきっと親は喜ぶだろう。
そのようなことを、私はできるだろうか。きっとできる。
プレゼントを贈ったり、定期的に帰郷し、元気な顔を見せるだけでもよいのだから。
それだけで親は喜んでくれるのだ。
できる、それなら私にもできる。
しかし、どこか、腑に落ちない。
『親が喜ぶこと』、それは私にとっても喜ばしいことだ。これは本心だ。私は本当にそう思っている。しかし、「『親が喜ぶこと』をやってあげたい」と、私は思っているだろうか。
――ああ、そうか。
親孝行とは、しなければならないからするのではなく、したいからするものだ。
親に感謝している。なにか恩返ししたい。そんな純粋な気持ちが親孝行なんだ。
それは決して「しなければならないこと」ではない。義務ではないし、また事務的に行うものでもない。自分が心からそうしたいと思う、「ぜひ、したい」という、自らの能動的な想いこそが、親孝行なのだ。
だとするなら、ちょっと自信がない。
「親孝行しなければならない」とは思っている。だがそれは、「親孝行をしたい」という自発的な想いではなく、「もらったものは返さなければならない」という事務的な義務のようである。
たとえば私が母の日にプレゼントしたとして。
それは嘘くさい、というか、『しなければならないから、ただやっているだけだろ』って、そんな感じになってしまう。それが親孝行か? いや、ちょっとそれってなんか違うよな。
感謝心がないわけではない。むしろ、ある。が、親孝行という『与える行為』におよんだ途端、偽善じみた不純なものを感じずにはいられなくなって、「このやり方はやっぱりおかしいな、不自然だな」、と思うのである。
じゃあ、私はどうすればよいのか。
私は、親孝行をすることができないのだろうか。
――ああ、そうか。
「親孝行とは何か?」という問い方がよくなかった。
「私にとっての親孝行とは何か?」に言い換えることで、答えがでる。
エレファントカシマシというロックバンドが、『地元の朝』という歌のなかで次のように歌っている。
「人間なんて人情ドロボウ
二親に捧げられし愛を
一体どうやって返そうか? 返そうか?」
「立派な大人になりたいな 立派な大人になりたいな
体の全て使い尽くして死にたい」
エレファントカシマシ『地元の朝』
いや、もう、スゴいな、この歌詞は。エレファントカシマシ、大好きだ。
つまり、「自分の人生を精一杯生きることもまた親孝行ではないか」、って。
育ててくれた親に対し、親孝行のひとつもできない自分のことを、こう思う。まるで人情ドロボウだと。
いや、私だけじゃないかもしれない。
“人間なんて人情ドロボウ”
ドラマのように感動的な親孝行を成し得る者が、いったいどれだけいるだろう。そして、この理想は、はたしてどこまで実現可能なんだろう。
「私にとっての親孝行とは何か?」と言い換えてみる。
産んでくれたこと、および、育ててくれたこと、その結果、今ある自分の命。こいつを余すことなく燃やす尽くすこと。すべて使い切ること。
“体の全て使い尽くして死にたい”
自分の人生を精一杯生きることもまた親孝行ではないか。
と、そんなことを思うのだ。
しかし、親より先に死ぬことほど、親不孝もあるまい。@ryotaism