“努力するために努力しなければならない――”

「◯◯について努力したい」 と思っているのですが、努力すること、それ自体がじつに面倒なのです。億劫で、苦痛だと感じてしまう。

努力をするために努力しないといけない状況です。

「いや、お前それ単に怠け者なだけだろが」と云われれば、まったくその通りで、単に怠け者なんでしょう。生来、生粋の。

――かつて、『楽しいことならば、努力を努力と思わないのだ。自分が楽しいと思えることをせよ』と考えていた時期が私にはありました。

楽しいことならば、苦を感じない。夢中の人は、努力を努力と思わないのだ。

『努力』とか言っている時点で、もう、その道には向いていない。

向いている人、才能がある人は、努力どうこう言う前に、すでに夢中になって取り組んでいる。圧倒的な熱量を注ぎ、膨大な時間をかけている。

“好きなことに夢中”――そこに努力などという野暮な言葉が入る余地はない。

「好きなことに夢中になって取り組んでいるヤツ」には勝てないのだ――「努力」は「好き」には勝てないのだ。


――しかし、時は経ち、「そんな理論では片付けられないこと」が生じる。

才能がなくても、成さねばならないこと。

努力するのが面倒でも、何が何でも、イヤイヤでも努力して、やり抜かないといけないことがある。

それは楽しいことではない。つまり、「やりたいこと」ではない。――しかし、それ以上の意味をもつ、「やらなければならないこと」である。

面倒だけど、やらなければらないことがある。

あるいは、才能がなくても、諦めてはいけないことがある。

そんなとき、それに向かって、スムーズに努力ができるだろうか? もしそれが「やっていて楽しいこと」であるなら、自然とそうなるだろうが、そうではない。

“努力するために努力しなければならない――”

それは極めて不器用、と言わざるを得ない。

それを思ったとき(僕はそうしなければ努力ができないんだと気づいたとき)、不向きであることに気づき、無力感をおぼえた。向いていないし、はっきり言って、才能がないのだ。

しかし、やらなければならないこと(それは、やりたいこと、それ以上のこと)――努力するために努力しなければならないのである。そうするよりほかないのである。

そんなもんだろう。本当に大切なことは、大抵、うまくいかない。向き合うことだけが求められる。@ryotaism