〝何者〟にもなれない問題についての正解。
〝何者〟にもなれない。――という問題は、〝何者〟かになりたいから生じる。
『〝何者〟にもならなくてよいのだ』と言いたいわけではない。
『〝何者〟にもなれなくていい』、そんなふうに思える人間がいるのか、わからないが、〝何者〟かになりたいと、少なくとも私はいつもそう思っている。言い換えれば、「生きているだけで満足だ」とは思えない。
〝何者〟かになりたい、けれど〝何者〟にもなれなくて、もがいている。これはそういう問題なのだが、では、解決策はあるのか?
最近私は思う。
何者かになれる、そんな日が来るのか? これはもしかして来ないのではないか?
ようやく私は気づく、いや、思い出す。『不安定と不条理』という、人の本質について。『人間とは不安定な存在であり、人生とは不条理なものである』という、ある種の原理原則について。
例えば、『何者かになれた』と言う者がいたとしよう。しかし、そんなのは自己欺瞞ではないか。
『何者かになれた』と、本当にそうなのかどうかは一先ず置いておいて、なぜ、彼(彼女)はそんなことを言うのか、言ってしまうのか。
彼(彼女)は不安定に耐えられないのだ。『何者でもない』という、不安定な状態に耐えられない。だから、〝何者〟かになりたいと思うし、〝何者〟かになれたと言いたい、言ってしまいたい。
ここで大切なのは、〝何者〟かになりたいと思うことは間違ってはいないということ。そして間違っているのは、『何者かになれた』と言ってしまうこと。
人間の存在の本質は〝不安定〟である。〝不安定〟こそが人間である。したがって、〝安定〟しているというのは、これは本質からブレており、非本来的な在り方である。
そもそも、なぜ、〝何者〟かになりたいと人間は思うのか。
〝何者〟かになりたい、これは、本質が〝不安定〟であるがゆえに生じる。その衝動を避けることは不可避だ。だが、『何者かになれた』はいただけない。これは不安定に耐えられなくなった者の自己欺瞞であると、私はそう思っている。
パズルのピースをはめようとしているが、なかなかうまく当てはまらない。それはそうである。それは最初からサイズの違うパズルのピースだからだ。何をどうやっても当てはまるはずがない。
いつまで経っても〝何者〟というパズルは完成しない。そういうものだ。不条理な話だが、そういうものだ。
いつまで経っても、しっくりこない。すっきりしない。落ち着くことはない。着地しない。安定しない。不安定なまま。
その状態を維持する。〝何者〟にもなれずにもがいている様こそが、最も人間的、本来の在り方ではないか。
『何者かになれた』と、安定に逃げるのは止して、と同時に、〝何者〟にもなれないことから目を背けてもならない。しっかりと向き合う。
何者かになりたいという気持ち(ならざるを得ない人間)、しかし、何者になってもいけない(なることができない人間)。
何者かになりたくて、でもなれなくて――それは大変苦しい、地獄的であろう。しかしそれでいい。向き合い、逃げずに、闘い続ける。そういう生き方がいい。
『何者かになれた』あるいは『何者かになろう』と言う者を尻目に、不安定なまま、もがくことを選ぼう。それで死んでもいい。@ryotaism