疑いたくないなら信じるしかないという当たり前について。
ずいぶん長いあいだ、ブログの更新がとまっていた。
このまま自然消滅しそうな勢いである。
が、そうもいかない。
ネットにアップされた文章や画像は消滅しない。放って置いても、残り続ける。
――ところで先日、35歳の誕生日を迎えた。
すっかり壮年のおじさんである。
うれしいより、かなしい気持ちのほうが強い。ということはつまり、いい年のとり方をしていないのかもなぁ。
いや、とはいえ、この年齢になって初めて思えることがあって、
これは20代のころには到底思えなかったことなのだが、
「しあわせだ」と思うときがある。
……嘘みたいな話だが、私は35歳になって初めて「しあわせだ」と思えた。
言い換えれば、35歳になるまで「しあわせだ」と思ったことがなかった。
人生とはそんなものなのかもしれない。
しあわせだと思うのに、最低でも35年はかかるのである。驚きである。
私個人はそうだった。それだけは、ここに書き記しておきたい。
――しかし、人とは因果なもので、
しあわせを目の前にすると、それを疑おうとする。
「はたして、この幸せは、本当なのか? 嘘なんじゃないか? だまされていやしないか?」と。
それをたしかめたく、疑う。
疑心暗鬼になり、当の幸せを疑う。
手にした幸せを失いたくない、だからこそ、疑う。
しあわせだと思う隣で、疑う心を同時に持つ。
「しあわせは、不安でもある」
幸せを失うことが怖いから、自らその幸せを手放そうとする人もいる。
しかし、この年齢になって思う。
これはまるで高校生が言うようなことだが、
35歳になってようやくその意味の重さと難しさを知る。
「人を信じる、自分を信じる」
疑う心を超えるには、それ以上に信じるよりほかないのである。
疑いたくないなら、信じるしかないのである。
「幸せは同時に不安である」――本当にそうなのか?
そうでない人を私は見かけたことがある。
きまってそういう人は、疑うよりも、人や自分を信じている人ではなかったか。
わかってはいる。こんなことは文章で書けばたやすいが、信じること、それを実際に行うことは大変むずかしいことで、また、つらいことでもある。けっして容易ではない。
なぜなら、信じるの隣には、裏切りがあって、信じなければ裏切られることはない。
「信じるの隣にはリスクがある」
だれだって裏切られたくはない。信じて裏切られたら、たまったもんじゃない。
しかし、信じなければ、疑い続けることになる。
疑い続けると、しあわせは壊れる。それはなんとなく、想像がつく。疑い続けて(疑われ続けて)、はたしてうまくいくだろうか? やっぱりどこかで破綻するような気がする。長続きはしない。
しあわせ及び人や自分を疑い続けると、手にした幸せは逃げる。というより、壊れる。
「裏切られることを恐れて、信じることを恐れる。そして、疑うを選ぶ、疑いにとらわれる」――そんな臆病の末路は、死ぬほど大切にしたいと思っていた〝この幸せ〟の終わり、ではないか。
***
「幸せがなぜか不安だ」、そう思ったときに、疑うのか? 信じるのか?
私は「人を信じる、自分を信じる」。何度もそれを心に決め、そんなことを35歳になって、あらためて誓う。
どうせ死んでいく人生である。
疑った数より、信じた数が多いほうがいい。
疑って死ぬより、信じて死ぬほうがいい。
自分はそうやって死にたい。
それだけは、ここに書き記しておきたい。今日はこんなブログである。思秋期。@ryotaism
