明けまして2019年
明けましておめでとうございます。
2019年ですねー。
ブログ更新がかなり減ってしまったのですが、、、気まぐれで投稿します。
それにしても、悲しいことは起こるものだなぁと思う。
大きな災害や事件・事故といった、いわば非日常的な事だけでなく、
普段の日常生活の中において、日頃、悲しいことは起こる。
それは一つ一つがとても小さなものではあるけど、いってみれば、チクッとトゲが刺さる程度の痛さでしかないのだけど、やはり、まったく無傷の生活などはありえないのだろうなと思う。
仕事の小さなミスや、人間関係のちょっとしたこじれ、些細なことでの信頼のゆらぎ、ふいに訪れてはすぐに消える孤独な瞬間、駅のホームで肩をぶつけられる、舌打ちされる、嫌なクレーマーと出くわす、文句を聞く、嘘をついていないのに嘘だと言われる、人の噂や陰口、仕事=数字を問われる……など。一つ一つはたいしたことではないが、「なんか嫌だったな」「ちょっと疲れたな」ということが、定期的に身の回りで起こっては、どこかへ去っていく。
小さな悲しみは、すぐにどこかへ消えていく。その程度のものだ。
「悲しいな」と思っても、その小さな悲しみは、次の日には忘れている。
が、何よりそのことが悲しいというか。小さな悲しみを繰り返し、生活している。忘れてはまた繰り返し、を続ける。
「あのときの悲しみはどこへ行ったのだろうか」
そんなことを考えているうちに、また次の小さな悲しみがやってくる。
思い出す暇などない。いや、思い出そうとしても、思い出せない。小さい悲しみなど、一度忘れてしまえば、なかったことになっている。
そんな毎日を続けている。繰り返している。生活とはそういうものなのか、と考えると、そのことが何よりも悲しいというか。
ちょっとだけダメージを与えられて、でもすぐにそのダメージは回復して。でもまたすぐにちょっとダメージを与えられて、またすぐに回復して……。これを繰り返している。ダメージはないのに、これではどこか、内面が疲弊してこないか。
「地獄というのは、殴られたときのような一回の衝撃ではなく、じわじわやってくる、永続的な毒のこと」――本当の苦しみはそういう類なのかもしれない、また、もしも生活がそのような“ゆるやかな毒”のもとにあるなら、たいそう残酷だ。
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何でも自分の思い通りにいくなら、悲しいことなんて起こらないのだろうか。どうなんだろう。いや、そんなこと、そもそもありえないか。
なんだか、新年一発目から、ド暗い投稿となりましたが…元気にやっていきましょう。
人や世に裏切られることを恐れてはいけない、信じることだ、祈ることだ、
死ぬまで私はそれを自分自身に言い続けてがんばっていきたい。
よーし今年もがんばるぞー。