仕事において、色々と目標はあるけれども、
昨年ごろから、「人を喜ばせる人間になる」、これを一つの目標にしていました。

「偽善者」「打算的」…そのように思われるかもしれないが、大真面目に、私はそう思っている。

なかなかこれ以上の目標ってないんじゃないか。

「人を喜ばせる人間になる」、それを目指すことは、一見すれば「仕事(お金を稼ぐこと)」と、かけ離れているようにも思える。

人助け、ボランティア、奉仕…こういったフレーズには、“無償”がセットになっている。

“人に喜んでもらうことを目指せば、その相手からはお金はもらえない。”
“仕事(お金を稼ぐこと)のためには、人が喜んでくれることは二の次になることがある。”


ーーー恥ずかしながら、そんなふうに思っていたことがありました。

しかし、今はまったくそう思いません。


「人を喜ばせる人間になる」ことと「仕事(お金を稼ぐこと)」は相容れないのか?


「人を喜ばせる人間になる」ことと「仕事(お金を稼ぐこと)」は共存不可なのか。

これはおそらく、そんなことはなくて、
そもそも「給料や報酬」は、「人を喜ばせる」ことによってもらえる対価でもある。

だから、むしろ、人を喜ばせる人間になれたなら、仕事もうまくいくのである。

もちろん、「そんなものは綺麗事だ」という言い分もわかるし、お金持ちが、そんな発想だけでお金持ちになったとは思わない。きっと、泥臭い部分もあるんだろう。

しかし、たとえば「優れたビジネス」を思いつく人は、「人の欲すること、何をしたら喜んでもらえるか」がわかる人であろう。

「人を喜ばせる人間になる」ことと「仕事(お金を稼ぐこと)」は、重なる部分がたくさんあると思う。


人に喜んでもらえたら私も嬉しい気持ちになる


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なにをいまさら、小学生の道徳の時間みたいなことをいうのか。

いや、大人になった今だからこそ、強く思うのだ。

「私が何かをすることで、その人が喜んでくれたら、私も嬉しい気持ちになる」

大人になって、ますますそう思う。

(勿論、そんなふうに思わない人もいるだろうが、多くの人はきっとそうだろうという思い込みで話をすすめさせてもらいます)

喜んでくれる人。
これは仕事上の顧客だけではない。ともに働く同僚、仕事仲間も含む。

私が何かすることで(例えば仕事をフォローしてあげたりなど)、それで仕事仲間が喜んでくれたら、こちらも嬉しい気持ちになる。

つまり、私も仕事仲間も、両者ともに「嬉しい」。


仕事をほんの少し好きになれる


私がこう思うようになったのは、
何より、仕事それ自体を、ほんの少しだけ好きになれると思ったからだ。

「人を喜ばせる人間になる」、そんなことがもし仕事の目標として成立するなら、こんなにも有り難いことはない。

そしてそれは、ここまで述べたように、おそらく成立可能なのである。


そう思えたとき、「仕事っていうのも、まんざらじゃないな」と思うのだ。

嫌なことばかりでもなかろう、やりがいもあろう。
私の仕事の目標は、「人を喜ばせる人間になる」ことだからだ。


さいごに


今回書いたことは、
どこかで聞いたことの焼き直しかもしれない。

世の中に溢れる、いわゆる奇麗事と呼ばれる考え方。

たとえそうだとしても、
私としては、この考え方がなかなか憎めないのである。どうも否定しきれない。

人を喜ばせられる人間、あるいは、人を幸せにできる人間。
こんな自分でも、そんな人間を目指してもいいんじゃないか。
誰が言ったかーーー。
「目指したとしても、必ずなれるとは限らない。しかし、目指さなければ始まらない」。


今回はここまで。