人の失敗を笑うな!と言う私は、私を笑わないでほしいと思っている。
「人の失敗を笑うな」と言うことがある。
あるいは、「人の挑戦を笑うな」。
私がこれを言うとき、私のことを指して言っている。
人(他人)を指して言っているようで、その実、私のこと、つまり、「私の失敗を笑うな」と言っているのである。
「私の挑戦を笑わないでほしい」という気持ちを言い換えているのである。
いってみれば、“自己防衛”を図っている言葉なのだ。
しかし、そもそもそれはそんなにもいけないことか?
人に笑われることを恐れるのは、いけないことか?
これは仕方のないことだとも思う。
人は一人では生きていけないという、シンプルなこと。
私は集団やコミュニティのなかで生きていく生き物だ。その中でしか生きていけない生き物だともいえる。
だから、笑われたくないという気持ちは、本能的にそれは仕方あるまい。完全に孤独で生きている生き物なら、こんな恐怖を抱かないのだろうけども。
“笑われて孤立すること”、それは実に不安である。
笑われたくない、ああ、笑われたくない
笑われたくない、極力、笑われずに生きていきたい。私はそう思う。
だから、失敗も、挑戦も、しないでいるほうが安全だ。事実、そういう時が私にはある。
しかし、どうもそれでは退屈だ、と思うことがあって、「眠ってばかりじゃダメだ。起きないと!」と、何か行動を起こし始める。
これは、私がいつか必ず死ぬ存在だから、その死ぬまでの間をどう過ごすかを考えたとき、「どうせなら何かやっておきたい」「同じ調子で過ごし続けるには退屈すぎる」「どうせ死ぬならもうヤケクソ」……このような心情に陥るからである。
しかし、私は失敗する、挑戦して失敗することがある。そしてそのとき、一部を除いて、人は笑うだろう。私はその笑い声を嫌うだろう。恥ずかしい気持ちになるだろう。挑戦者はそんな、「笑われることを恐れる私」を情けないと言うだろう。
赤面するとき、そんなとき、「ああ、やっぱり私は人には笑われたくないのだな」と感じる。
孤立を受け入れる
「笑われたくない、でも挑戦したい。失敗したくない、でも失敗する」
これを繰り返している。
このループを止めたくて、SNSなんぞに「人の失敗を笑うな」と書き込み、自らで自らを慰める。納得させようとする。
しかし、そんなことでは、終止符は打たれない。
本当は笑われたくないと思っている。だから、「人の失敗を笑うな」? それで一体何が解決するというのか。自己欺瞞だ。
ではどうすればよいのか?
一つ考えはある。
孤立を受け入れる、ということ。
“笑われて孤立すること”、それは実に不安である。私は集団やコミュニティの中で生きていく生き物に違いない。
そもそも“孤立”とは何か?
“孤立”したら、私は生きていけないか?
そんなことないのではないか?
集団やコミュニティの外側では生きていけないが、その内側で孤立するぶんには、生きていけるのである。―――もう少し正確に言うなら、どれだけ孤立しようとしても、私は集団やコミュニティの内側にいる。その外側に出ることはできない。
私はどれだけ孤立しようと思っても、私は常に集団やコミュニティの輪のなかにいる。
人は一人では生きていけない、もし一人になったと思っても、そのときでも一人ではない。
だから安心すればよい。
“笑われて孤立すること”は不安、その気持ちは拭えないだろうが、もし笑われたとしても、私は孤立しない。まわりには、誰かがいる。それは私を応援してくれる人かもしれない。かりに、そうじゃなくても、私のことを笑う人ばかりであっても、人とのつながりのなかに私はいる。
孤立することを受け入れる、私は受け入れられる。なぜなら、孤立することなどそもそもありえないからだ。孤立しても、そこは誰かがいる。
少なくとも、私の失敗や挑戦が人に笑われたくらいで、そんなもんで孤立するはずがない。
それほどまでに、人は社会のなかに放り込まれている存在だ。
さいごに
「人の失敗を笑うな」ではなく、「人の失敗を笑ってもらってもかまわない」と思えるところまで行く。
私は笑われてもかまわない。
それはイコール、私は孤立してもかまわないと覚悟することだ。
もう一度言う。
私の失敗や挑戦が人に笑われたくらいで、そんなもんで孤立するはずがない。
笑われてもいい、そう思えるところまで登っていく。
「人の失敗を笑ってもらってもかまわない」。
今回はここまで。
