「いいね!」されないとSNSのやる気が起きない人


みんな何のためにSNSやっているのだろう。

例えば、Twitterやインスタグラムなど。

表題では「いいね!」と書いたけど、「いいね!」をもらえなくっても、誰かに見てもらえるからSNSやるんだろう。

承認欲求といった言葉があるが、認めてもらう・もらわないを問わず、少しでも自分に注目してもらえる瞬間や可能性があるから、SNSに投稿をする。

しかし、それがなくなれば、当然、SNSなんてやらなくなる。やる気が起こらなくなる。

つまり、SNSは「孤独な人が孤独なままで楽しめるコンテンツ」ではないのだ。

何をいまさら・・・ではある。

SNSは、そもそも“他者との関わり”こそが大切な要素であり、それこそが本質なのだ。極論、他者との関わりなくして、SNSは楽しめないのだ。

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間違っているかもしれない。いや、間違っている前提で聞いてほしいのだが、

「仕事もうまくいって、家族ともうまくいって、恋人ともうまくいってて、生活する上での収入もあって……」

という、そんな人がSNSに投稿する理由って、何かあるんだろうか?

SNSは、何か、足りていない、欠けている、生活のスキマを埋めるためにあるのではないか?

よって、満たされている人にSNSは必要ないのではないか。

ただし、例外はあって。それは「ビジネスとしてSNSを活用する人」である。今、SNSで精力的に投稿している人って、たいていそういう人じゃないでしょうか。SNSはそういった、“声の大きい人”によって占められているように感じる。(——夢を持っている人、かなえたい人も、これに含まれる)

ビジネス/自己実現活用ではない、それ以外の理由でSNSの投稿をするって、いったいどういったときだろう。

孤独なときである。

誰かに見られたい、誰かに「いいね」されたい、誰かとの「つながり」がほしい。

そんな、孤独な人が、小さな声で投稿する、何かのスキマを埋めるための場所。

ビジネスでも自己実現でも、バズりたいわけでもない。

孤独だから、つながりたいから、SNSに投稿する。

しばらくそんなSNSやインターネットを見てない。

@ryotaism

孤独と幸せ


“「孤独ではないこと」を「幸せ」と云う”

ーー私にとって、幸せとは所詮そんなものだ。

孤独ではないことが、私にとっての幸せ。

仲間や、家族、恋人……大切だと思える人と過ごせる毎日は、幸せだ。

「孤独ではない」、それだけで「幸せ」なのだ。私にとっては。


孤独ではないーー幸せであると、満ち足りた気持ちになる。日常の中で嫌なことがあって、その気持ちが欠けたとしても、すこし経てば、また満たされる。


私の人生は、孤独だと感じていた時期と、そうでない時期とで二分される。

私が孤独だったとき、あのときの私は、どんな私だったか。思い出せそうで、思い出せない。

一度人は孤独ではなくなると、孤独を忘れる。

再び孤独にならない限り、もう孤独を思い出すことはできない。

幸せな人間が、不幸を想像することはできない。

幸せな人間は、今の幸せに浸かる。満たされた私は、どうやっても満たされたまま。

幸せとは、不幸なことに不可逆である。

欠けてもすぐに満たされ、渇いてもすぐに潤う。


孤独ではない、そのように思わせてくれる人たちと出会う。運命的にせよ、偶然にせよ、そういう人たちと、どこかのタイミングで出会う。

人生は変わっていく。孤独ではない自分へと変わっていく。幸せなほうへと変わっていく。

もう不幸ではないし、孤独ではない。

孤独ではない、それは幸福を「得る」こと、と同時に、孤独を「失った」こと。


「孤独ではないこと」を「幸せ」と云った。しかし、幸せとは不幸なことに、不可逆であった。

もう孤独な自分はどこにもいない。

まったくこれは幸せな話である。

SNSやブログで情報発信をすることと私。


前回のブログ更新から随分日にちが経ってしまった。

前回:明けまして2019年

特に書くことがない、というか、書きたいという気持ちが起こらない。

ネタのあるなしではない。「インターネットに書き込みしてだからどうなる」と思ってしまう。

とはいえ、インターネット時代である、情報発信の時代である。わかっている。だからなんとか私もその流れにのろうと、SNS含め、無理にでも書こうと発信しようとするのだが、しかし途端、やたら億劫になって辞めてしまう。

こんなんでいいのだろうか。もっとうまく、SNSやYoutubeを活用したほうがいいんではなかろうか。次にブログを書くのはいつになるのか。

いや、もうこのままでもいいのかもしれない、つまり、SNSやブログと特に関わる必要なんざないのかもしれない。「それはそれでいいことだよ」、と。しかしその結果目に見えているのは、ネットに疎いおじさん、になっていくのだろうなと思う。

明けまして2019年


明けましておめでとうございます。

2019年ですねー。

ブログ更新がかなり減ってしまったのですが、、、気まぐれで投稿します。

それにしても、悲しいことは起こるものだなぁと思う。

大きな災害や事件・事故といった、いわば非日常的な事だけでなく、

普段の日常生活の中において、日頃、悲しいことは起こる。

それは一つ一つがとても小さなものではあるけど、いってみれば、チクッとトゲが刺さる程度の痛さでしかないのだけど、やはり、まったく無傷の生活などはありえないのだろうなと思う。

疑いたくないなら信じるしかないという当たり前について。


ずいぶん長いあいだ、ブログの更新がとまっていた。

このまま自然消滅しそうな勢いである。

が、そうもいかない。

ネットにアップされた文章や画像は消滅しない。放って置いても、残り続ける。


――ところで先日、35歳の誕生日を迎えた。

すっかり壮年のおじさんである。

うれしいより、かなしい気持ちのほうが強い。ということはつまり、いい年のとり方をしていないのかもなぁ。

いや、とはいえ、この年齢になって初めて思えることがあって、

これは20代のころには到底思えなかったことなのだが、

「しあわせだ」と思うときがある。

……嘘みたいな話だが、私は35歳になって初めて「しあわせだ」と思えた。

言い換えれば、35歳になるまで「しあわせだ」と思ったことがなかった。

人生とはそんなものなのかもしれない。

しあわせだと思うのに、最低でも35年はかかるのである。驚きである。

私個人はそうだった。それだけは、ここに書き記しておきたい。

――しかし、人とは因果なもので、